「孤独死とか嫌じゃなーい?」
と、バイト先のおば様に問われたのですが、個人的には
「そんなことなくなーーーい?」
と思うのです。正解もない話なのでその場は「そうなんですか?」とだけ返しましたが。
こんにちは、どぶのごみ子です。
近年「孤独死=かわいそうで悪いもの」みたいな風潮が強い気がしますが、現時点で私は「将来は孤独死できたら嬉しい」と思っています。
もちろん実際には死に方なんて選べないので、自分が孤独死するのか病死するのかうっかり事件事故に巻き込まれて死ぬのかなんてわかりません。
しかし「孤独死でもよくなーい?」と思えれば、少なくとも生きてる間の“こわいこと”が1つ減るのではないでしょうか。
ということで今回は「一人で死ぬ奴が全員孤独とは限らない」がテーマです。
孤独死した祖母と発見者の私
血の繋がらないオバアチャンについては、以前のブログ「絶縁してた毒親と約10年ぶりに再会した話」にて書きましたが、当然私にも血の繋がった祖母がいます。
親以上に私の世話をしてくれて、とても優しかった祖母。
そんな祖母は、一人暮らしする自分の家で孤独死しました。
ある日「祖母と連絡がつかない」とうろたえる母と一緒に祖母の家に行くと、寝る用意をキチンと整えた祖母が、これまたキチンと布団に横たわって亡くなっていたのです。
生前祖母は、もしもに備えて枕元に緊急通報装置(具合が悪くなったときに押す非常ボタンみたいなの)を置いていましたが、そちらに手を伸ばした形跡もなく、ただ「いつも通り寝ている人」のように見えたことを覚えています。
死後1ヵ月以上放置してしまったため、やはりところどころ傷んではいましたが、気候のいい時期だったことが幸いしてぐちゃぐちゃどろどろではありませんでした。
大人はいい顔をしなかったけど
その後は、やれ警察を呼びに行くだの、葬式をするだの、家を取り壊すだの色々ありました。
葬儀には初めましての親戚や近所の人がたくさんいて、多くの人から一様に「おばあちゃん見つけたとき、どんな感じだった?」とこっそり、ですがどこか興味深そうに聞かれたことを覚えています。
臭いとかした?表情はどんな感じ?色は?などと聞いてきた人たちは恐らく「孤独死の惨状が知りたいけど、娘(私の母)に聞くと心ない人だと思われるから、幼くて人の心がはかれない孫(私)に聞いてやろう」という心理だったのではないでしょうか。
当人たちの目論見通り、当時9歳だった私は何もわからずペラペラ答えていましたが、皆最後には取って付けたように真剣な顔をして「1人で死ぬなんてかわいそう」的な発言をするのが不思議でした。
だって私は、祖母の「苦しそうではなかった死に様」に安堵していましたし、たとえ実際は苦しんだとしても「1人きりでひっそり死ぬ」という死に方は、生前控えめな性格だった祖母にぴったりな死に方だと思って納得していたからです。
ちなみに、大好きな祖母がいなくなったことに関しては当然「人生終わった」とまで思うレベルに悲しかったです。キッズの心は純粋なのさ。
私が孤独死を理想とする理由
以上のような経験をきっかけに「孤独死もありなのでは?」派となった私。
その後、年月が経過しても考えが変わることはなく、それどころか人間性が固まるにつれ以下のような理由から一層「孤独死が理想」と思うようになりました。
「救える命」ならもう救わないでほしいから
「孤独死を防いで早期発見できれば、助かる命が多いこと」は事実でしょう。
ですが私は、そんなギリギリのラインを攻めてまで、もう生きていたくないです。
本能的に死ぬのは怖いし嫌なのですが、私を生かすために誰かが特別なことをしなくてはいけないというのなら、もう何もしないでほしい。
病と闘う人を貶めているつもりも、今すぐ死にたいと渇望しているわけでもありませんが、私はもう自分の人生に十分満足しました。
既に心残りのような出来事がないので、自然の摂理に逆らってまで救ってもらう理由もありません。
死ぬときまで誰かに気を使いたくないから
幼少期、たびたび祖母宅に長期間預けられ彼女の教えを一身に受けた私は「人に気を使ってしまうくせに気疲れする」という厄介な性格を引き継ぎました。
死にかけている私を前にすれば、人は良くも悪くも大騒ぎするでしょう。
見知らぬ他人でもたいていの人は「今救急車呼びますね!」とか言ってくれそうな気がするし、家族なんかがいれば「死なないで!」なんつって涙を流してくれるかもしれません。
たまったもんじゃないです。
そんなことをされた日にゃ「あれあれ、お手間を取らせて…ほんとすいませんねえ」とか考えて、くたばりかけながらも相手に気を使います。
空回ることも多いですが、今は私なりに人に気を使つつ頑張って生きているので、できれば死ぬときくらい誰にも気を使わず静かにのびのび死にたいです。
死んだ後に興味がないから
「死後に腐りたくないから孤独死したくない」という意見を聞いたことがあります。
確かに、キレイと汚いの二択なら、何となくキレイなほうを選びたくなりますよね。
ですが私は死んだ後であれば、自分が醜く腐り果てることに抵抗はなく「キレイでいたい」とも思いません。
そもそも私は、神とか死後の世界とか生まれ変わりとか、スピリチュアルめいた話は基本的に信じないタイプなのです。
死に方・弔われ方に関係なく「生き物は死ねば終わり」であり、人間の死体もスーパーで売ってる豚肉も壊れた家電も、残された人間の受け取り方が違うだけで根本は同じだと思っています。
そのため、死に方に関しては“まだかろうじて生きている”と捉えて「孤独死したいな☆」なんてワガママな願望を抱きますが、自分が死んだ後については“既に自分はそこにいない”と考えているため興味が持てません。
孤独死してぐちゃぐちゃになろうが臭いがしようがそのまま身元不明で無縁墓地に放り込まれようが、死んでいるなら何でもおーけー。むしろやった人が罪に問われないなら、ごみに出してもらったって構いません。
孤独死には悪い面もある
ここまで好き勝手に孤独死理想論を書き殴ってきましたが、もちろん孤独死には悪い面があることも理解しています。
孤独死の悪い点は「孤独死された人が困ること」です。
孤独死してるかも?と気づく近隣住人、賃貸の場合は大家さん、清掃費用どうするの問題などなど…。
孤独死した人は死んでる手前、さほど痛手を負わないのが正直なところなのかなとも思いますが、やはり他人様に迷惑をかけるのは忍びないですものね。
私の場合も、このままいけばかなりの確率で死後他人の手を煩わせることになりそうで、そこに関しては今から胸が痛みます。
ただ、そこまで不安視していない
自分の死後に漠然とした不安を抱くこともありますが、だからといって「何ともならない!どうしよう!」と慌てるような気持ちは持っていないです。
もとより、生き物にとって“何ともならない事態”こそ死ではないのでしょうか。
日本が「金も身寄りもない人間が孤独死するとどうにもならない国」なら、既にそこかしこに人間の死体がゴロゴロしているはず。
ですが実際そうなっていないのは、自治体や専門の業者が何とか後片付けをしてくれるからです。
こんなことをいうとまた誰かに怒られそうですが、人間は「生きても死んでも誰かしらに迷惑をかける厄介な生き物」だと考えます。
さらに、生きているときならまだ行動を改められますが、死んでしまってはどうしようもありません。
だから、個人的には「死ぬ迷惑を不安視し過ぎても仕方がないよなあ」とも思うのです。
もちろん「仕方のないことだから死ぬときは迷惑かけまくってやるぜ!」と開き直るのもどうかとは思いますが。
孤独死が悲しいかは人それぞれ
で、いいと思います。
昨今はやたらと「生き方の多様性」だなんだつって、アブノーマルとノーマルの境界線が曖昧な世の中が流行りでしょう。
なら、死に方だって多様でよいのでは?
私は自分の倫理観にあまり自信がないので、自らの考えを人におすすめしたいとは思いませんが『誰にも迷惑かけない死に方をしよう!』的な商品には、生き残る側による「こっちに迷惑かけずに死ね」というメッセージが込められている気がして何となくぞわぞわします。
また、こういう話は難しいと感じる一方で「ただ生きるとか死ぬだけなのに難しいと感じるなんて変だ」とも思うのです。
ほんと、人間やってくって大変。
んじゃまた。