ちょっと聞いてよ、
ついこの前、何でかめっちゃ死にたくなっちゃって。
あ。こんにちは、久しぶり、どぶのごみ子です。
つーかね、そもそも私は「あー、もういなくなりてえ~」と考えるのが基本仕様ではあるものの、積極的に「死にたい!」と考える人間ではありません。
ところがどっこい、2022年の私は一味違う。
と、めちゃめちゃ具体的かつ真剣に人生のデリートボタンを探していました。
そして、そんな感じで毎日忙しく過ごしていたら、ちっともブログが書けませんでした。(言い訳)
しかし結果的には、こうして今日も元気にブログを書いています。
今回、すこぶる死にたくなるという経験を通じて「こうしたら気持ちが前向きになったよ!」と気づきを得たわけでも「やっぱり生きるって素晴らしいよ!」と悟りを開いたわけでもありません。
ただ、ネット上にはやたらと「とりあえず死ぬな」的なアドバイスが多くて(当たり前なのかもですが)、ちんけな死にたがりは少し寂しかったのです。
ということで今回は「死にたいくらい落ち込んだなら、そっと見下げてみればいい。地べたをのたうつ私がいるよ!」がテーマです。
「死にたい」から苦しいのではなく「死ねない」からキツイ
今回、落ち込む状況がこじれて長引いた経験を経て、このように感じました。
本当に死にたいのなら、一切合切を放棄して高いところから飛んでみるなり、首に何かを引っかけてその辺にぶら下がってみるなりすればいいのです。
しかし律儀な生存欲求は、なかなか自分の仕事を手放さない。
いくら死んだほうがマシと思うほど落ち込んでも簡単には実行できず、なおかつ「実行できない」という事実がまた私を惨めな気持ちにさせてくれます。
「落ち込んだ時の対処法」だって万能じゃない
もはや入口も見失っていれば出口も行方不明な状況下、どこにあるかもわからない扉を探して手近なブラウザウィンドウを開けば、生暖かい風のようなアドバイスにたくさん出会います。
『止まない雨はありません。深呼吸をしてみましょう』
『死ぬ気になれば何でもできます!話を聞かせてくれませんか?』
『生きたくても生きられない命があります。命を無駄にしないで!』
・・・。
・・・・・え、うるさ。
以上が、極限状態のなか「とりあえず生きろ」的なアドバイスを目にしたときの私の感想です。
ちなみに『死にたい人間にとって自分が病気かどうかなんてどうでもいいし、雨が止むってんなら何時何分何秒地球が何回周ったときなのか正確に教えてほしいし、別に死ぬ気があるわけじゃなくて生きる気力が尽きかけてるだけだし、生きたくても生きられない命があるなら、死にたくても死ねない命だってあっていいんじゃないの?』を全て集約し一言で表現すると「え、うるさ。」となります。
もちろん状況や感性によっては救われる人もいると思うので、上記のようなアドバイスを嘘っぱちとかおせっかいとか役立たずとか、非難したいわけではありません。
私がしたいのはあくまで【死にたいレベルまで落ち込んでいる真っ只中に生きるためのアドバイスを投下されても、正直耳馴染みが悪すぎる】という話。
「死なないで!生きて!ねえねえねえ!」と言われても、すっかりキャパオーバーしてる心じゃ受け入れることすら難しいです。
個人的には「すげー死にたい?わかるー、でもなかなか死ねなくてキツイよねー。ところで今夜の晩ごはんは何食べる?」くらいのゆるさが欲しかったので、似た者同士の誰かに向けて今ブログを書いています。
死にたいほど落ち込んでた私がやったこと
「頑張らない」を人生の基本ルールに設定している私は、死にたいほど落ち込んでいた最中は、普段以上に自分を甘やかしました。
私同様、死にたい・死ねないで一人相撲にふけっている人が「あ、ここにもダメな奴いるじゃん」と安心できるよう、当時の私が送ったクソな暮らしぶりを紹介します。
飯や風呂さえ後回しにした
個人的に普段から日々の食事と入浴は面倒臭いのですが、死にたいほど落ち込んでいるときの飯と風呂は、面倒なんて言葉じゃ片付かないほど億劫です。
よって、特に必要に迫られない限り飯と風呂はやりませんでした。
いいんです、飲み物さえ飲んでいれば少しばかり食べなくても人は死にませんし、人に会わないならお風呂に入らなくても他人への害はありません。
死にたいほど落ち込んでいるときに頑張ろうとすると、普段以上にエネルギーを使いますし、最悪頑張れずに余計落ち込む結果に終わることもあるので「人として最低限」といわれることさえ放棄しました。
睡眠リズムだけは死守した
現在の私は決まった時間に起きなくても問題のない生活を送り、日々夜ふかしに精を出していますが、一応自分で決めた就寝・起床時間に則って暮らしています。
そしてこのリズムは、どれだけ死にたい状況下でも守り抜きました。
睡眠リズムまで甘やかすと、寝すぎたり、そのせいで今度は寝れなくなったり、そしてそんな自分に嫌気が差したりするためです。
睡眠は落ち込んでいるときの唯一のオアシスといっても過言ではないので、ストレスの根源とならないように注意しました。
短時間の楽しみで気晴らしした
死にたいほど落ち込んでいるときは、何をやっても没頭できず、できた気がしても数分で飽きてしまうといった調子で、いつも以上にやる気と集中力がなくなりました。
「ブログを書きたいな」「読みかけの本を読みたいな」とは思うのですが、いざ実行してみるとどうにも興が乗らずできないのです。
ついに何も楽しめなくなったんだ…私の心は死んだのだ…とも考えましたが、そんなことを考えれば当然さらに気持ちが荒れたので、諦めて「短時間でできる遊び」に心血を注ぐことに。
- 映画やアニメではなくYouTubeを見る。
- 小説や漫画は長編ものではなく短編作品を読む。
- 文字すら読むのがだるいときは図鑑や画集を眺める。
主にこんな感じのことをして時間を潰していましたね。
これらは当時の私にとって本当に「したいこと」ではありませんでしたが、数少ない「できること」だったので、とても有り難かったです。
時間を持て余すと余計なことを考えるので、付け焼刃でも「今できる気晴らし」は貴重でした。
ちなみに読んだ短編小説はこれ。
もはやチョイスした本がタイトルからして露骨で、そんな安直な自分をちょっと可愛く思います。
ただし、安直な人間でも自己啓発系の本は苦手なので手を出しませんでした。
「やり過ごそう」と言い聞かせた
死にたいほど落ち込んでいるとき、脳内はだいたい常に騒がしく「答え」を探していました。
「自分が嫌なら消してしまえばいいのでは?」「死にたいなら死ねば解決するのでは?」と、目の前の苦痛に対する短絡的な答えをさも正解かのように示してくるのです。
ですが「何もかも嫌で消えたいくらい疲れても、絶対やらない方がいいこと3つ」というブログでも書いたように、人はメンタルが不調なときに瞬間的な答えに従うとだいたい失敗します。
よって、まずは「後で死んでもいいから一旦この波をやり過ごそう」と自分に言い聞かせました。
「やり過ごしてみても死にたいなら後から死ねばいい」と思えば少しだけやり過ごす気力がわきましたし、実際にやり過ごしてみると今すぐ死ぬ必要性も特にないと思えたので、こうして元気に生きています。
死ぬまで死にたい気持ちをやり過ごせるか
人生はまだまだ長いので、私はきっとこれからも定期的に死にたくなるでしょう。
「死にたいほど落ち込んだら、ひたすらにやり過ごせ」という自己流の対処法も持ってはいますが、どんな対処法にも限界はあると諦めている手前、いつまで有効かはわかりません。
ですが、それは誰しも同じこと。
人間の心は毎日使っていると少しずつくたびれてきて、時折「もうどーでもよくね?」と甘く囁いてきますよね。
もしも、そんな人間の人生にタイトルをつけるなら「死ぬまで死にたい気持ちをやり過ごせるか一本勝負」なんて滑稽な題がつくのかもしれません。
それでも個人的かつささやかな理想としては「自然の道理に従って、虫けら同様意味なく死にたい」と思っているので、私はまだ滑稽な人生をやり過ごしてみようと思います。
はー、生きるって大変。
んじゃまた。