幼少期、自分のことを「まともな大人にならないんじゃ…」と心配していたかつての私に伝えてあげたい。想像通りまともに生きられないから心配するな、心配するだけ骨折り損だと。
こんにちは、どぶのごみ子です。
私には「まともに生きられないコンプレックス」があります。
世にいう「普通」「まとも」は何となく理解しているつもりですが、頭で理解できても実行するのはわりと難しく、そんな自分の社会不適合者具合に辟易することがあるのです。
辟易タイムが始まったらそりゃもう大変。
「こんな世の中クソだ!」と憎んでみたり、
はたまた「決まった型がある社会にハマれない自分がダメなんだ!」と荒ぶってみたり、
しまいには「まともに生きられない人間は、どうやって生きてったらいいんだよぉぉぉ!」と心の中で泣き言を言ってみたりします。なんつーか情緒が台風。
しかし角ばった石ころが年を重ねるごとに丸くなっていくように、まともに生きられない私の心も少しずつ、本当に少しずつですが変化している気がします。
ということで今回は「世の中はまともな人が多いのではなく、年食ってまともっぽく生きることに長けた奴が多いだけ」がテーマです。
そもそもまともに生きられない人とは
まともに生きられない人とは、自分のなかの「まとも像」から外れた人を指すのだと思います。
「きちんと働いて結婚して子供を作ればまとも」という人がいれば「犯罪を犯さずいるだけでまとも」と言う人もいて、“まとも”の判断基準は千差万別でとても曖昧です。
よって、まともに生きられない人の明確なボーダーラインは存在しません。
世の中には他人のことを「あれが出来ないからまともじゃない」と決めつけて謎の優越感に浸る人や、反対に「これが出来るからまとも」と決めつけて謎の安心感を得ようとする人もいますが、もちろんそんなものも単なる個人の感想であり根拠はゼロ。
そしてこの根拠のなさは自分にも当てはまり「まともに生きられない人間だ」と自己評価を下したとて、自分のなかの「まとも像」なんて結局は他人を観察したり刺激を受けたりして得たものなので真実とは限らないでしょう。
ですが、個人のボーダーラインは思考のなかに確実かつ絶対的に存在しているので、そのボーダーラインを越えて「まとも像」の外へはみ出ると人は自分に失望します。
失望したことで傷つくか開き直れるかは人それぞれですが、もしかすると「まともに生きられない」は、そんな小さな失望のことをいうのかもしれません。
まともに生きられない人間だと悩んだときに考えたいこと
自分で自分を「まともに生きられない」と思うのなら、誰に何と言われようがあなたはまともに生きるのが難しい人なのでしょう。
そんなとき「まあそれでもいいよね!まともじゃないの最高!」と思えるのなら、別に何も問題はありません。
しかしもしも「まともに生きられないまま、どうやって生きていけばいいのか」と悩んだら、考えるべきことは1つ。
それは、ざっくりとした今後の身の振り方を考える。
要するに
- 無理してでもまともを演じて生きていくか
- まともに生きられないまま生きていくか
という2つの選択肢から1つを選ぶのです。
確固たる決意なんて持つ必要はありませんし、適度に混ぜたり途中で変えたりしても全然OKですが、ゆるくでも身の振り方を考えておかなければ具体的な生き方も固められません。
まともに生きられない人はどうやって生きればいいのか
「まともを演じて生きていくケース」と「まともに生きられないまま生きていくケース」に分けて、どうやって生きればいいのか考えてみます。
まともを演じて生きていくケース
多少の無理は承知で、まともを演じて生きていくと決めたなら、とにかく「郷に入っては郷に従え」の精神で周囲や社会と帳尻を合わせて生きていくことが大切です。
まともなんてのは人や時代によっても変わりますが、それでもやっぱり「普遍的なまとも」ってあると思います。
普遍的なまともの最大の魅力は、安定性が高く安心感があることです。
先人の多くがその道をたどっているので未来予測もつきやすく、さらには「ちょっと無理してるけどまともっぽくいられてる」という事実は心を落ち着かせてくれます。
まともに生きられないまま生きていくケース
どうしても周囲と足並みを揃えられなかったり、頑張っても無理できなかったりするなら、まともに生きられないことを受け入れて生きていくのも一つです。
まともを演じて生きていくよりリスクはあるものの、自由度が高いので人によっては気軽に過ごせます。
この場合、とにかく大切なのは「食い扶持を得ること」。
既に食い扶持を見つけている人や自分に合った仕事を持っている人はいいですが、まともに生きられない人の多くは職に困ります。
恋愛事情や生活習慣がちょっとばかりまともじゃなくても死にませんが、お金が尽きるのは死活問題なので「自分ができるお金を生むこと」にあり付かなくてはいけません。
まともに生きられない私なりの生き方
ちなみに、私はまともを演じて生きてみたり、まともに生きられないまま生きてみたりと、基本的にふらふらふわふわしています。
しかしどちらの生き方を選んだ場合でも、心がけていることが3つあるので紹介してみます。
わからないことにはとりあえず挑む
「まともに生きられない」と一口にいっても能力には個人差があるので、
- 難なくまともにできること
- ちょっと頑張ったらできること
- かなり無理したらできること
- ひっくり返っても絶対できないこと
はバラバラです。
よって「自分にできるかわからないこと」は、とりあえず挑む精神でいます。
たとえば、仕事は接客業から清掃業まで経験しましたし、恋愛に熱を上げてみたり、友だちを増やす努力をしてみたりしたこともありました。
上手にできなかったことのほうが多かったのですが、やってみなければわからなかったのでやってよかったです。
仕事は金額だけで考える
仕事は「どんな仕事か」よりも「生きていけるくらい稼げるか」で考えます。
よって、仕事内容はもちろん、肩書きや雇用形態、安定性はほとんど重要視していません。
私はいつでもどこでもふわふわした精神で働いているので、そんな浮ついた奴がお金以上の立派な肩書きや安定性を求めるのは高望みしすぎです。
何なら今は、頼まれた文章やデザインを個人で作りつつ、週に1回ラブホへバイトに出かけつつ、ちょこっとブログを書きつつ、知り合いに頼まれればごく稀に夜のお店で裏方をやりつつ生きていますが、一体自分が何の仕事をしている人なのか自分でもよくわかりません。さらにいえば、この生活をいつまで続けるかもわかっていません。
ただ、色んなところからちょっとずつ小金をかき集める生き方は、1つの勤務先で働くと息が詰まる私には合っていると思います。
控えめに生きる
まともに生きられないと周囲と同じように振る舞えないことも多いので、あまり迷惑にならないよう基本的にひっそり控えめに生きています。
情緒に大型台風が上陸すると勢い余って世の中を憎みだす私ですが、それは本当に勢いづいているだけであり、自分の苦労や生きにくさを世間に知らしめて同情が欲しいわけではありません。
それどころか、誰かに自分を大々的にアピールするような生き方は苦手です。
「苦は色変える」というように、どんな人にもそれぞれ苦労があると思うので、既に苦労している人にわざわざ自分の苦労を見せびらかす必要はないと思います。
あとは、他人に迷惑さえかけなければ、ちょっとくらいまともに生きられなくてもよいのでは?という甘えた思考もはらんでいたり。
まともに生きられないから何だってんだ
と、最近は思います。
まともに生きられないことに対して昔はもっと敏感で、私は本当にダメな奴でこのまま落ちぶれまくって死ぬまでどうしようもない人間なんだと思っては悲しかったです。
何となく、自分で自分のことを特別視していたのかもしれません。
しかし年の功なのか何なのか、最近は少しずつ「ダメで落ちぶれまくって死ぬまでどうしようもないからって何だよ。こっちはまともじゃないなりに頑張って生きてんだ」と思いつつあります。
それが良いことなのか悪いことなのかは置いておいて、悲しくないからよいのです。
どうやって生きていけば…と悩んだことは数知れず、これからも悩まないとは断言できませんが、今までもどうにかして生きてきたのだから未来も同様に生きていくのではないでしょうか。
ふらふら生きている私が「まともっぽく生きたほうが絶対安定的でいいよ!」とか「まともなんてかなぐり捨てて自由をエンジョイしようぜ!」とか、どちらか一方をおすすめすることはできません
が、せめてこんなところまで読んだあなたが悲しくなければいいと思います。
んじゃまた。